9歳の時 父親が亡くなって

昭和38年10月9日。
その夜、鎮守・石神神社の秋祭りを控え、村では準備に追われていた。
確か台風の接近で、外の軒先から雨音が聞こえていたのを覚えている。
当時九歳の小学校三年生だった私に母が突然、
「父ちゃんがケガをした。病院に行ってくるからおこたに入って大人しくしてな」と告げ家を飛び出して行った。
その様子にただならぬ空気を感じた私は、何故か涙が溢れだした。
「お父ちゃんが死んだ…」
私が住んでいた群馬県群馬郡倉渕村は、県の西部に位置していた。高崎市から北西に約30キロの山間部の小さな村、人口は6000人ほどで住民同士がみんな顔を知っている小さな村での出来事だった。

下村博文少年期

それから残された家族の生活は苦しかった。私は三人兄弟、弟は五歳と一歳。母の辛い思いは、今考えるとどれほどのものだったろうか。
私は小学校六年生になったら耕運機を動かして畑仕事も手伝うようになった。勉強よりも食べることが何より先だった。
経済的に苦しかったので生活保護を受けたらどうかという助言を受けたことが再三あったようだが、自分が働けるうちは人の助けを借りないでやって行こうというのが母の気持ちだったようだ。私は母が寝ている姿を見たことがなかった。

「これでいい、よくやったね、もういいよ」とは絶対言ってくれなかった。私が結局甘えてしまう、止まってしまうと思ったのだろう。よくやったと甘やかすことの方がどんなに楽か。それを母は、歯を食いしばって我慢したのだと思う。
平日は懸命に働き、時として強さを教える父親と、優しく接する母親との両方を演じることが、母の子育てだった。
あの頃の母の姿が、次のような私の親子関係の教育論を形作った。
寝るところを見せないほど私たちを食べさせるために働いた姿や、父親がいない私が社会で強く生きるために突き放した母。いい親になろうと懸命に生きた母のその背中が、子供を育てて行く親のあり方を教えてくれた。



貧困の中で思った「教育は権利だ…」

父親を亡くした生活は、確かに辛かった。小遣いなどほとんどない私は本も買えなかった。しかし、逆にそれは本をむさぼり読むきっかけになった。
私は小学校の図書館の蔵書の三分の一、千冊ぐらいは読んだのではないかと思う。土曜日には必ず図書館に立ち寄って一冊を借りる。家に帰ると自分で弁当を作って裏山に登った。そこからは関東平野が見渡せた。頂上付近にある木の下で、弁当を食べながら本の世界に入り込んだ。暗くなるまでひたすら読みふけった。
本は私に色々な知識を与えてくれた。学ぶ喜びを確実に本が与えてくれた。友人の家などに遊びに行くと、本棚にズラリと全集が並んでいるが、表紙などきれいなままで読んだ形跡がない。ただただ羨ましかった。
≪当たり前に本を親から与えられているからきっと本の素晴らしさが分からないのだろう≫と思ったものだ。

昭和45年に私は高崎高校に進んだ
群馬県下でも有数の進学校だったが、どうしても高崎高校へ行きたくて中学三年生の時は必死で勉強した。入学試験はクリアしたが直面する問題はやはり学費だった。公立とはいえ母の収入だけでは無理があった。だが、どうしても学びたい、進学したいという熱意に母が押された。
「公立ならなんとかお金を出せる。でも高校まで」と言った。

ところがここで私は交通遺児育英会と出会う。
交通遺児に対して奨学金を出すこの制度はちょうど私が高校一年生の時にスタートし、学校の紹介で奨学金を受け取ることになった。交通戦争が社会問題化し、父親を失った子供たちの支援が必要になってきていた頃である。同時に日本育英会の特別奨学金も受け取ることができた。当時は給付制があった。奨学金があったからこそ、苦しい中でも安心して高校時代を送れたのだった。

その仕組みを作っていくのが、もしかすると政治の仕事なのではないか。私が、自分の中に「政治家になりたい」という目標を持ち、中でも「教育」という環境を整備して行きたいという気持ちを持つようになったのは、こうした苦しい数々の実生活が影響していると思う。

そしてもうひとつは学ぶことは権利であるということ。進学もままならぬ境遇にあった私は常に自分の中で、
「学びたい、学べる権利が自分にはあるはずなのに」
という気持ちが燻っているのに気づいていた。
恐らく逆境の生活の中にいなければそんな気持ちは湧いてこなかったろう。当たり前に公教育があり、当たり前に学校に通うことができる…。それができない者にとっては限りなく羨ましいことなのだ。

国も公教育をいつしか淡々と義務としてこなし、学ぶ側も義務としか思わない。
しかし、違う。
誰にでも望む場所で望むような形で学べる権利がある。私の心からの叫びだった。言い換えれば、教育の選択の自由と言ってもいい。だからこそ、それに応えるために教育はもっともっと多様であっていい…。
これらの教育に関する考え方は、実際の体験に基づいているからこそ私は胸を張れる。さらに言えば、教育という分野ひとつとってもそうだが、経済的、社会的ハンディキャップを負っている人たちに対して、機会の均等はやはり社会が保証すべきである。