同志社国際高校の辺野古研修旅行問題の本質
同志社国際高校の辺野古研修旅行問題の本質
私は、この問題の本質は単なる事故や安全管理の不備にあるとは考えていません。むしろ問われるべきは、なぜ高校生が辺野古という極めて政治性の高い現場に修学旅行として継続的に赴き、その活動に参加する教育が行われていたのかという点です。
修学旅行は本来、歴史や文化、自然、産業などについて幅広く学び、生徒の人格形成に資する教育活動です。しかし、辺野古新基地建設問題は、日本の安全保障、日米同盟、沖縄の基地負担などをめぐり、国民の間でも意見が大きく分かれる政治課題です。
そのようなテーマを扱うこと自体は否定されません。しかし教育の場である以上、特定の立場や運動に接近することなく、多面的・多角的に学ぶことが大前提でなければなりません。
ところが、同志社国際高校の研修内容については、長年にわたり辺野古移設反対運動に近い活動や関係者との交流が中心となっていたとの指摘がありました。もし生徒たちが、基地反対の立場からの説明は受けても、安全保障上の必要性や政府の見解、日米同盟の意義について十分な学習機会を与えられていなかったとすれば、それは教育として著しくバランスを欠いています。
教育基本法は、教育が不当な支配に服することなく行われることを求める一方で、公共の精神や国家・社会の形成者としての資質を育むことも求めています。学校は生徒を特定の政治的方向へ導く場所ではありません。
私は、平和教育そのものを否定するものではありません。しかし平和教育が、いつの間にか特定の政治運動への共感を育てる教育へ変質してしまうならば、それは教育ではなく政治的働きかけになってしまいます。
さらに問題なのは、「国際人教育」や「地球市民教育」という理念の名の下で、日本という国家の存在や民主主義的な政策決定のプロセスが軽視される危険性です。
辺野古移設は、日本国政府が選挙を経て選ばれた政治家や国会、司法判断などを踏まえながら進めている国家政策です。その是非について議論することは自由ですが、教育現場では賛成・反対双方の論拠を学び、生徒自身が判断できる環境を整えるべきです。
私は、この問題の本質は「修学旅行が教育の名の下に特定の価値観を生徒へ与える場になっていなかったか」という点にあると考えています。
教育の役割は、生徒に答えを与えることではありません。多様な事実や考え方を提示し、自ら考え、自ら判断する力を育てることです。
同志社国際高校問題は、一つの学校だけの問題ではありません。日本の教育が、政治的中立性を守りながら主権者教育や平和教育をどのように行うべきかという、極めて重要な課題を私たちに問いかけているのです。私は今後も、その原点に立って議論を続ける必要があると考えています。

